7. その他

塾の理念:自立して学習できること

というわけで、自主性を重んじます。興味を持って進んで学習してほしいということです。そのための手助けをしたいのです。

教師の仕事は、コックさんに似てるなとふと思ったことがあります。食材(教材)をうまく料理して、食べてもらう。まずければ食べないだろうし、満腹の人は食べられない。おいしいといって食べてくれたらうれしいし、食べ残しの山だったら、悲しいですね。 いずれにしても食べるかどうかはお客さん次第です。

学校の勉強、受験勉強、そんなに面白くないですよね。多くの人は、強制的にやらされるといやになってしまうんですね。同じことでも自分からやるとそうでもないのに。不思議ですね。これも自主性の表れなんでしょう。

数学、科学などもそれほど、興味を持ってないかもしれませんが、何しろこれは人類の知恵の蓄積ですから、食べ方によってはかなり面白いのです。ほんのちょっとでもそんなことを味わってもらえたらなあと思ってます。

興味の大切さ、学校の成績とその後

歴史上もっとも偉大な科学者の一人であるアインシュタインの、幼年期青年期のエピソードを見てみましょう。どこか自分に似ているなと思える人もいるかもしれません。

アインシュタイン(1879〜1955)
相対性理論の創始者で量子論の先駆者。 
ユダヤ系ドイツ人の商人の長男として、統一後8年目のドイツ帝国の南部に生まれた。父は発明家の弟と一緒に電気屋をやっていたが、彼が1歳のとき南ドイツ第一の都市ミュンヘンに引っ越した。地元の小学校と中等学校(*1)(ギムナジウム)に進学したが、その押し付け的な教育に強く反発した。16歳のとき、父が倒産して北イタリアのミラノに引っ越したとき、卒業間際の彼は学校に残されたが,特にギリシャ語の丸暗記中心の授業に耐えられず、勝手に退学して両親と合流した。(*2)それから中等学校(ギムナジウム)卒の免状をもたないでも入れる学校を探してスイスのチューリッヒ高等工業学校を受験。その試験には落ちたが、理科と数学は最高点で、しかも他の受験生より二歳若かったので、<どこかの中学校を卒業してくれば、1年後には入学させる> との約束を得ることができた。そこで、スイスのアールガウの州立学校に編入学して1年間その職業科の生徒として過ごしたが、彼はこの自由主義的な学校で始めて学校生活を楽しむことができた。
1896年10月、17歳でチューリッヒ高等工業学校に入学した。この学校はしばしば<チューリッヒ工業大学>などと訳されるが、大学に昇格したのは後のことで、彼の入学したのは専門学校の<数学物理教員養成部>だった。
ここで(*3)彼は<自分の興味のあることだけ>を独力で学びとった。彼が興味を持ったことについては教授さえ理解していないこともあって、彼は教授たちに<生意気な学生>としてにらまれる一方、いい友達に巡りあうことができた。グロスマンは彼の天才ぶりを認めてくれたし、セルビアから来た年上の女子学生と恋仲になった。1900年同級生4人中ビリの成績で卒業。他の3人の同級生は学校の助手にしてもらったが,彼だけは就職が決まらなかった。そこで就職活動をする一方(*4)、物理学の研究を続けて、1901年、「毛細現象についてのニ三の帰結」が権威のある学会誌に掲載されるまでになった。
彼がやっと安定した職についたのは、学校を卒業してから2年後の1902年夏のことで、ベルンにあるスイス特許局の技官に決まった。
「科学者伝記小事典」 仮説社

(*1)小学校と中等学校の頃・・・
子供のころのアインシュタインは、偉大な科学者としての将来をうかがわせるようなきざしを何一つ示さなかった。3歳をすぎるまでは口がよくきけなくて、両親を心配させるほどである。しかし5歳くらいになると、磁気コンパスをみてその不思議さに心を動かされ、また12歳のときにはユークリッド幾何学の本を読んで、論理の明快さに強い感銘を受けた。さらに、16歳ころまでには、微積分をマスターするかたわら、すぐれた科学普及書を読んで、自然科学のあらましを知るようになった。
このように、宇宙や自然に対する驚異の念と、それを理解しようとする好奇心を持っていたけれども、機械的な暗記は不得手であった。
「世界の科学者100」 Newton

(*2)勝手に退学・・・
アインシュタインの回想「私はミュンヘンの学校が、いやでたまりませんでした。厳格な規律と権威主義。教師は軍人のように、むちを振るって、隊列を組ませます。私は逃げ出す方法を探し求め、やっと見つけだしました。つまり、私と懇意だった医者のところに行って、一通の診断書をもらってきたのです。私は、神経衰弱に苦しみ、すぐにも学校を離れる必要があるという内容でした。」

(*3)ここで・・・
彼の数学教授にあたったのは、H.ミンコフスキーと、A.フルヴィッツであった。どちらも一流の学者であったが、アインシュタインはこの二人からあまり多くを学びとったわけではなく、また彼らのほうもアインシュタインを目に留めてはいなかった。しかしアインシュタインはもうこのとき、自分でいろいろなものを読みながら着想や、知識を蓄えていき、現代物理の主要な問題について一人で瞑想にふけりだしていたのである。彼は同級生のマルセル・グロスマンと友達になった。この人はスイス人で、後に大学の数学教授になって確固とした名声をかち得た人である。
「X線からクォークまで」 みすず書房

(*4)就職活動・・・
それから彼は、ギムナジウムに教師の職を得ようと努めたが、うまくいかなかった。ようやく彼は、新聞紙上に家庭教師を求める広告を見つけた。ふさふさとしたちぢれ髪と悲しそうな黒眼を持ったこのずんぐりとした青年は、その広告に応じその職を得た。受け持った生徒は、学校ではあまり成績のよくない二人の少年であった。アインシュタイン自身、かつて哀れなギムナジウムの生徒であった。彼は彼が「教育機械」と呼んだものに強く反対していたのである。それは、試験のとき吐き出せるように強制的に知識を詰め込むものである、と彼は見た。「好奇心は敏感な小さい植物で、刺激は別として主として自由を必要とする。」今や彼は、かつて彼が教えられたいと思ったように、二人の生徒を教えた。丸暗記するための解答を与えてやる代わりに、彼は彼らに質問を投げかけ、自分で解答を見つけるよう励ました。彼はその仕事が好きだったが、まずいことが一つあった。少年たちはまだギムナジウムに通学していた。そこでは、アインシュタインが最善を尽くして刺激しようとした彼らの好奇心が日ごともみ消されていると、彼は感じた。彼は雇用主のところへ行き、ギムナジウムの先生が教えるより自分のほうがもっとうまく教えられると説明しながら、二人の子を退学させるよう説いた。この提案はよくは受け取られなかった。それはアインシュタインの雇用主自身がギムナジウムの先生であったことを考えれば、多分驚くべきことではない。新しい家庭教師は解雇された。
「現代物理学をつくった人々」 東京図書

興味を持った人は、相対性理論の本も読んでみると面白いと思います。高校生程度の知識があればかなり理解できます。

歴史上、最も偉大な科学者といったらこの人を忘れてはいけませんね。ニュートンについても少年時代がどんなであったかを見てみましょう。

ニュートン(1642〜1727)
アイザック・ニュートンは、イングランド東海岸に近い小都市グランサムから南方に10キロほど離れた一寒村ウールスソープに、旧暦(ユリウス暦)の1642年のクリスマスの日に生まれた。偶然であろうが、この年はガリレオが鬼籍に入った年でもある。また、イギリスで清教徒革命が開始されたのもこの年である。出生に関連した話題をいくつか取り上げよう。
(1)彼は未熟児であった。生まれたとき1クウォート(約1リットル)の容器に入るほど小さかったとか、近所に薬をもらいに出て行った産婆が、自分たちがもどってくるまでは生きてはおるまい、と語ったとか、いろいろ伝えられている。ところが、この月足らずの未熟児は一命を取り止めたばかりか、立派に成長し、84歳という長寿を全うしたときでさえ、髪はなおふさふさとしており、抜け落ちた歯は一本しかなかったという。
(2)生まれたとき、父はすでに他界してこの世にはいなかった。すなわち、彼は生まれながらにして父なし子だった。しかも追い討ちをかけるように、実母は、彼がわずか3歳になったばかりのときに再婚して彼の元を離れたのである。したがってニュートンは、物心のつかない年齢で両親の愛を知らない子供となった。大科学者の中には幼少のころ父あるいは母と死別した人が驚くほど多いが、ニュートンのように、父と死別し、母と生別したという科学者の例は、この本で取り上げた科学者の中には、見出せない。
なお、実母の名誉のために付言すれば、彼女はニュートンの養育費を得る目的もあって、年収500ポンド(約1000万円)という身分の高い独身の牧師のもとに再嫁したのである。そして、第二の夫と死別した後、再び最初の婚家に、ニュートンの異父弟一人と異父妹二人を引き連れて戻ってくる。ニュートンが14歳のときであった。
再婚した母は、3歳のニュートンを祖母に預けて、家を出た。彼は成長するにつれ、腕白仲間と遊ぶよりは、何かを作っているほうが好き、という内向的な少年になった。学童として村の学校に通ったときも、模型作りを除けば、特別な才能など少しもあらわさなかった。
12歳のとき、彼はグランサムのキングス・スクールに通うことになった。学校が7マイルも離れたところにあったので、母と知り合いだった薬剤師クラーク家に下宿したが、彼はこの家庭から多くのことを得ている。まず、この家の薬学関係の蔵書から化学に対する興味が引き出されたことを挙げねばならない。また、クラークの継娘ストーリーが少年時代の最も親しい友人となり、18歳のときに婚約したことも興味をそそられる。この情緒的な愛情はやがて色あせ、生涯にわたるお互いの友情と尊敬に変わった。少年時代のニュートンについて資料を提供してるのは、このストーリーの回想録(*1)に他ならない。
さらにこんな逸話もある。あるとき、彼をいつもいじめていた少年に敢然と立ち向かい、徹底的に打ちのめしたというのだ。これが契機となって、それまでの目立たない少年はめきめき頭角を現し、成績も全学年で首席を占める、というたくましい少年に変貌した。
彼がこの学校に2年通って14歳になったとき、第二の夫にもすでに先立たれていた母が、彼との間にできた3人の子供を引き連れてウールスソープに戻ってきたのである。彼女は農園の仕事を手伝ってもらおうと、学業半ばのニュートンをキングス・スクールから呼び戻した。しかし、ニュートンは農業などそっちのけで、クラーク氏の家に足を運んで化学書を読んだり、水車などの模型作りに熱中した。
彼が百姓には向いていないことを悟った母は、相談した親類や友人のすすめで、彼をケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入れることにした。そこでニュートンは、キングス・スクール(*2)に復学し、受験の準備を進めることになった。授業の内容は、聖書と算術、そしてラテン語・古代史・初等幾何などだった。彼が少年時代に純粋科学や数学に特別関心を持っていたという証拠はない。
「ガリレオの求職活動、ニュートンの家計簿」   中公新書

(*1)ストーリーの回想録
「ニュートンはいつも陰気で、口数が少なく、考えこんでいるような少年だった。外で男の子たちと馬鹿らしいことをして遊ぶことはほとんどなかった。それより、家の中で女の子と遊んだ。よく小さなテーブル、食器棚、赤ちゃんや装身具を乗せる家具などを私や他の女の子たちに作ってくれた。」
「ニュートン」  岩波新書

(*2)キングススクール
<キング校>という文法学校に入りました。家からは遠すぎて通学困難だったので、彼はその町にある薬剤師の家に下宿して学校に通うことになりました。文法学校というのは、英語の文法を教える学校ではなく、<ラテン語の文法>を教える学校です。日本で言えば<漢文>ばかりを教える「漢学=儒教の学校」のようなものといえます。もっとも、日本の漢学校で教えた<儒学=古代中国の哲学思想>の中には数学や自然学といった内容はまったく含まれていませんでしたが、ヨーロッパのラテン語学校には、音楽・幾何学・天文学・自然学といった<古代ギリシアや古代ローマの学問>も少しは教育内容に含まれていました。その点、ニュートンは同じ時代=江戸時代初期の日本人よりもずっと近代科学に近い教育に恵まれていたことになります。
この学校の時代のニュートンは特別な秀才ぶりを発揮することはなかったようです。しかし、彼は下宿した薬剤師の家にあった薬品類に興味をもって、錬金術に興味をもつようになったといわれています。そのころはまだ近代的な化学という学問はできていなくて、薬品を使う学問というと錬金術でしかなかったのです。ニュートンは錬金術のほかに、機械的なおもちゃや風車などの模型作りに熱中しはじめました。彼が生家の壁に取り付けた日時計は今も保存されています。ニュートンより7歳年上のロバートフックも小さいころから機械工作に夢中になったということで、「今も昔も機械工作に夢中になれる環境が科学者を生み育てた」といってもいいでしょう。
「科学と科学教育の源流」  仮説社

これを今読んでいるあなた、ひょっとしたら自分の才能はこれから花開くんじゃないかとも思えてくるんじゃないでしょうか。

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